江村 理紗
えむらりさ
- [自己紹介]
- 趣味…テニス、映画鑑賞、日記を書くこと
- 尊敬する人物…両親
- 好きな場所…渡月橋、北山周辺の鴨川沿い
- 長所…人当たりが柔らかいところ
- 短所…一つのことに熱中してしまうところ
- [経歴]
- 昭和61年 中立保育園入園
- 平成4年3月 嵯峨野保育所卒園
- 平成10年3月 京都市立嵐山小学校卒業
- 平成13年3月 京都市立嵯峨中学校卒業
- 平成16年3月 京都府立北嵯峨高校卒業(27期生)
- 平成20年3月 同志社大学政策学部卒業(1期生)
- 学生時代、京都市議のもとで学生秘書を務め、広報や調査活動並びに
市議が出馬した市議選、市長選を経験。

- [職歴]
- 平成20年4月 株式会社ミスミ(東証一部)入社
- 平成22年7月 同会社退社
- 平成22年8月 地域政党京都党右京区支部長
- 平成23年4月 京都市会議員
- 平成23年5月 京都党 政務調査会長
- 平成25年10月 京都党 幹事長、京都党市会議員団 団長
- 平成28年2月 京都党 代表
- 平成28年9月 京都党 幹事長、京都党市会議員団 団長
- 令和2年9月 京都党代表

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私、江村りさとは?

エピソード[誕生〜保育園時代]
- 1985年10月、京都府京都市上京区生まれ。
- 性格は、甘えん坊で、泣き虫のわりに負けず嫌い。保育園ではうさぎ組でうさぎのシールが大好きだった。保育園の先生によく甘え、可愛がってもらった。
- 保育園時代、運動会の行進で足踏みのリズムをとるシンバルを担当し、上手にできたことを褒めてもらったのが嬉しかった。
- 母の妹がお菓子を買ってくれたり、一緒にゲームをしてくれたり、よく遊んでくれて大好きだった。クリスマスには魔法使いサリーちゃんのステッキをプレゼントしてくれ、いつも持ち歩いていた。
- 将来の夢は、お花屋さんかケーキ屋さん。妹(現在看護師)は当時から母と同じ看護婦さんになりたいと言っていた。
- 母の実家(鹿児島)で2か月ほど過ごした際、普段は朝晩しか餌をやっていない牛に、私が2ヶ月の間、昼時にも餌をあげ続けてしまったため、私が京都に帰って以降しばらく昼食を求めて牛が鳴いて大変だったと後から聞いた。

- 1歳、上賀茂神社初詣にて。

- 2歳の誕生日。
歌のレパートリーは19曲あったようです。

- 大好きだった亀岡市民プール。
ウォータースライダーは怖くてまだ挑戦できませんでした。

- 妹と何度も通った動物園。

- 保育園の卒園式。小さい頃からお別れが苦手でこの日も泣きました。

エピソード[小学校時代]

- 小柄だったので騎馬戦では上に乗ることに。真剣勝負でした。

- 学校のスキー行事。何とか滑れました。

- 長距離走は得意だったので学年の代表メンバーで駅伝に出ました。
エピソード[中学時代]
- 硬式テニスに夢中だった。
- テニス観戦も好きで、当時活躍していたヒンギスやアガシの試合を録画して何度も観ていた。
- 興味本位で始めたエレクトーンは10年続き、字がうまくなりたくて始めた習字は毛筆6段までいった。
- 友達とたくさんプリクラを撮った。「今となっては恥ずかしい」。
- 小学生の頃からクラス内のいじめを黙って見てられない性格だった。荒れ気味の中学に戸惑いを覚えつつも、クラスで居心地が悪そうにしている人を見るとすごく辛い気持ちになり、声を掛けるようにしていた。
- 課外活動が最優先の中学校で文化祭や体育祭には全力で取り組んだ。体育祭ではダンスメンバーに入って放課後の連日の特訓は楽しかった。
- 中学2年に入ると、高校受験を意識するようになった。中二の夏前には自由な校風と硬式テニス部がある紫野高校を志望するようになり、親に頼んで塾にも通い始め、ようやく真剣に勉強に取り組むようになった。第一志望はその後山城高校に変わった。理由は、校舎立替で屋上に新しいテニスコートができるのに魅力を感じたためだった。
- 京都市の「バス停方式」と呼ばれる自宅付近の高校を割り当てられる制度に中学生ながら違和感があった。部活動などで特別な成績がない限り、行きたい高校を志望するには特進クラスしかなく、その中でも第二志望は最寄りの高校を選択しなければリスクのある制度は選択の自由度が低かったが、頑張るしかなかった。この時の問題意識が議員になった後の「自由に高校選択をできる高校入試制度提案」につながった。(平成26年4月入学より、単独選抜制度実現)
- 高校受験は志望校に入れなければ浪人する覚悟で、下校後は毎晩深夜まで勉強に励み、家族は夜食を作ったり紅茶を入れてくれたり何かと応援してくれた。
- 特に数学と理科と英語の偏差値は飛躍的に伸びた。その一方で国語は伸ばし方が分からず偏差値の足を引っ張る悩みの種だった。
- 猛勉強の甲斐あり偏差値は一年半で15上げることに成功した。「高校受験を通して、集中力や粘り強さを身につけられたと思う。その時の努力の積み重ねが今に生きていると感じられる。」
- 体育はあまり好きではなかったが、マラソンだけは得意な方で、毎年中学で実施される登山大会では、学年単位の順位がつくことも頑張るきっかけになり、特に3年時の時には本番3ヶ月前から毎朝自主的に走り込みの特訓に励んだ。その甲斐あり、学年10位に入賞できた。
- 理系が得意だったが、志望校の高倍率を避けて文系を選択した。結局その年だけ文系の倍率が高く、苦戦することとなった。
- 偏差値は上がったものの第一志望の夢が叶わず、市の制度により最寄りの高校が指定された。合格発表の掲示板に第一志望でない高校名が書かれているのを見て、その場に立ち尽くし人目をはばからず泣いた。仕事中の父に泣きながら電話で報告した。「父は私が立ち直れないのではと心配してくれていた」。祖母は家で一人泣いている私のもとにホールケーキを持って駆けつけてくれ、「よく頑張った」となぐさめてくれた。
- 歌手はSPEEDやモーニング娘やゆずや浜崎あゆみが流行っており、卒業時には担任の先生にゆずの“さよならバス”を歌ってみんなで泣いた。
- 自分はあまり要領がいい方ではないことに気付いた。「今では人から器用に見られることも増えたが、根は不器用。何事も一足飛びにはいかないが、一つずつ壁を超えながら進みたい。」

- エレクトーンの発表会にグループで出場しました。

- 仲の良かった友達と体育祭にて。日焼けで年中まっ黒でした。
エピソード[高校時代]
- 第一志望でない北嵯峨高校を好きになれないのではと気にしていたが、「努力して出た結果は、たとえ希望通りではなかったとしても、きっと自分の人生のプラスになる。」ことを信じ、前向きに進み始めた。
- 高校は畑に囲まれた自然溢れるのどかなところだった。
- 高校は進学クラスで3年間クラス替えがなかった。40人学級に男子生徒は10名ほどしかおらず、クラス内は女子高の雰囲気だった。
- 授業は1年生の頃から7限まであり、終わるころにはすっかり夕方になっていたが、公立高校としては充分な教育体制で塾には3年間通わなかった。
- 高校では当初、硬式テニス部を作ろうと発足メンバーを揃えたが、顧問を出来る先生がちょうど高校を去ってしまった後であえなく発足の夢は叶わなかった。その後ソフトテニス部に入ったが、やはり硬式テニスがやりたかったので習い事で通うようになった。決して裕福な家庭ではない中で、エレクトーンや習字、塾、そしてテニスと、通いたいとお願いした習い事を経験させてくれた両親にはすごく感謝している。“やってみたい”という気持ちを尊重してもらえたおかげで、新たな目標に出会えたり、自発的に取り組む姿勢が身についた。
- 当時、衆議院選挙で初めてマニフェストが打ち出され、目標数値や実行期限が示された提言に、日本の政治が動いていく期待感を抱き、政治に関心を持った。
- 大学での選考学部は政治経済を横断的に学べる政策学部に決めた。高校受験での辛い経験から、大学受験には万全な計画で挑んだ。
- 勉強付けの毎日だったが、昼休みにはクラスメイトと校庭でバドミントンをしたり、体を動かすのが好きだった。
- 高校3年時の文化祭ではクラスのダンスの振付を担当し、みんなで一つのものを作り上げられたことに達成感があった。
- 卒業前、下校時に目の前でバイクに乗ったお爺さんが踏切内で倒れ、すぐに駆け寄ったものの一人では担げず、迫ってくる電車から逃げず一緒にひかれようか咄嗟に迷った。幸いそれを見かけた大学生も加わってくれ、無事にお爺さんを踏切外まで運び出せた。あの時は咄嗟だったが、手を差し伸べる勇気と愛情を持ち続けたい。
- 中学から日記はよく書いていた方だが、この頃には同じ悩みの堂々巡りにならないためにただ物事の羅列ではなく建設的に書こうと心掛けるようになった。一度に1,000字は書く習慣ができたおかげで、今でもたまに日記を書く度に「悩みを羅列した後は解決策を考えよう」と自分に言い聞かせている。

- 高校の時に特に仲のよかったクラスメイト。仲良し3人組。教室で撮りました。

- 体育祭でクラスメイトと。
受験勉強の中、合間に精を出し、みんな真っ黒に日焼けしました。
エピソード[大学時代]

エピソード[商社勤務時代]

エピソード[選挙出馬]
- 帰郷した夏、地域政党京都党の発足メンバーに加わり、新党新人としての活動がスタート。
エピソード[1期目]
- 京都党からは当選議員4人で、ついに議会活動が始まりました。
- 当選後、間もなく私の事務所に多くの“陳情”が寄せられました。これまで聞いたことのない案件も多数あり、四苦八苦しながらでしたが、市民の声を行政へ届けていくことができるようになりました。
- 議員団室は京都市役所2階の真ん中の部屋からスタートし、自分のデスクができました。着任後すぐに山積みになった書類には圧倒されました。
- 4月後半に初めて本会議に参加しました。座席番号は「1」番。市長の席に最も近い最前列で、議長の投票などでは最初に1票を投じる場所でした。議員になるまで傍聴席から見ていた議場に議員として入り、“江村理紗”と書かれた氏名標を目にしたときの「緊張と興奮」を今でもを覚えています。
- 議会ではヤジも多く、「ヤジは議会の花」と肯定する人もいますが、怒鳴りつけるような口調のヤジも少なくなく、不快に感じました。
- 選挙の際に行った市民の声、約38,000筆の署名活動「議員定数削減の議論」は議員3年目でいよいよ本格的になりました。市会改革委員会の場で話すことになり、京都党を代表して私が出席しました。先頭を切って定数削減を主張する党として、他のベテラン議員から直接私に質問が飛ぶこともありました。毎回ただならぬ緊張感の中、主張を述べ切りましたが結果は私たち市民が訴えた9名減とは程遠い2名減という結果でした。これからも引き続き議員定数削減を進める活動をしていきます。

- 議会の座席は1番に。初めての議会の際に、席に自分の名前が書かれているのを見て高揚感に包まれました。
定数削減
高校入試制度改革
技能労務職
エピソード[2期目 現在]