江村 理紗
えむらりさ
昭和60年(1985年)10月25日京都市生まれ
嵯峨野保育所卒、嵐山小学校卒、嵯峨中学校卒、北嵯峨高校卒、 同志社大学政策学部卒
(株)ミスミ(東証一部)を経て、現在京都市議会議員4期目(右京区)
目標:人任せにせず、自ら悩み、考え、成長する京都市になるための助力となりたい
自己紹介
趣味
テニス、映画鑑賞、日記を書くこと
尊敬する人物
両親
好きな場所
渡月橋、北山周辺の鴨川沿い
長所
人当たりが柔らかいところ
短所
一つのことに熱中してしまうところ
経歴
昭和61年
中立保育園入園
平成4年3月
嵯峨野保育所卒園
平成10年3月
京都市立嵐山小学校卒業
平成13年3月
京都市立嵯峨中学校卒業
平成16年3月
京都府立北嵯峨高校卒業(27期生)
平成20年3月
同志社大学政策学部卒業(1期生)学生時代、京都市議のもとで学生秘書を務め、広報や調査活動並びに市議が出馬した市議選、市長選を経験。
職歴
平成20年4月
株式会社ミスミ(東証一部)入社
平成22年7月
同会社退社
平成22年8月
地域政党京都党右京区支部長
平成23年4月
京都市会議員
平成23年5月
政務調査会長
平成25年10月
京都党 幹事長、京都党市会議員団 団長
平成28年2月
京都党 代表
平成28年9月
京都党 幹事長、京都党市会議員団 団長
令和2年9月
京都党 代表
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私、江村りさとは?
エピソード[誕生〜保育園時代]
- 1985年10月、京都府京都市上京区生まれ。
- 性格は、甘えん坊で、泣き虫のわりに負けず嫌い。保育園ではうさぎ組でうさぎのシールが大好きだった。保育園の先生によく甘え、可愛がってもらった。
- 保育園時代、運動会の行進で足踏みのリズムをとるシンバルを担当し、上手にできたことを褒めてもらったのが嬉しかった。
- 母の妹がお菓子を買ってくれたり、一緒にゲームをしてくれたり、よく遊んでくれて大好きだった。クリスマスには魔法使いサリーちゃんのステッキをプレゼントしてくれ、いつも持ち歩いていた。
- 将来の夢は、お花屋さんかケーキ屋さん。妹(現在看護師)は当時から母と同じ看護婦さんになりたいと言っていた。
- 母の実家(鹿児島)で2か月ほど過ごした際、普段は朝晩しか餌をやっていない牛に、私が2ヶ月の間、昼時にも餌をあげ続けてしまったため、私が京都に帰って以降しばらく昼食を求めて牛が鳴いて大変だったと後から聞いた。
- 1歳、上賀茂神社初詣にて。
- 2歳の誕生日。
歌のレパートリーは19曲あったようです。
- 大好きだった亀岡市民プール。
ウォータースライダーは怖くてまだ挑戦できませんでした。
- 妹と何度も通った動物園。
- 保育園の卒園式。小さい頃からお別れが苦手でこの日も泣きました。
エピソード[小学校時代]
- なぜか一度だけ、公園に妹を残したまま一人で家に帰ったことがあり、その時が両親にすごく怒られたけど、友達と遊ぶときもいつも妹を連れて行っていた。
- 小学生時代、二歳下の妹と身長がほぼ同じで、そのうち追い抜かされるのではとヒヤヒヤしていた。妹と自然と競い合うことで、いろいろと頑張れるようになった。
- とにかく注射が怖くて、学校での予防接種の直前には緊張で熱が出てしまい打てなかった。結局後日別の診療所で注射したが、一度免れたときには嬉しかった。今でも注射は苦手。
- 阪神大震災が起こった翌日、緊急で小学校から支援をすることになった。折り紙などみんな様々なものを持ち寄り、私は100円を募金した。命を救うなにかの力になってほしいと心から願った。
- 仕事熱心だった父。それでも、大事な会議と運動会の日が重なった際、何とかムリをして、運動会に駆けつけてくれました。父が見てくれていたことがすごく嬉しかった。
- アニメはセーラームーンが大好きで、カード集めにはまっていた。当時はカードのキラキラのことを何故か「ヘッド」と呼んでおり、ヘッドを何枚持っているかで妹や友達と競い合っていた。
- ハムスターを二匹飼っていた。名前はジャックとトト。トトは欲張りで頬袋にはいつも限界までひまわりの種を蓄えていた。太りながらも機敏な動きをするトトを可愛がっていた。ハムスターを飼ったことしかなかったけど、学校で飼育しているウサギを週末に家で預かったときはすごく嬉しかった。父は足の小指を何度も噛まれ苦戦していた。
- 一輪車にいつも乗っていて、後ろ向きに進んだり、最終的には片足でこげるようになり、「沢山すり傷を作った分上達できた」。
- 小学校6年の運動会では学年でV6の「輪になって踊ろう」の曲で組体操をして、「あの頃は毎日のように頭の中で“輪になって踊ろう”の曲が流れていた」。
- 初めて買ったCDは安室奈美恵の「You’re my sunshine」。自分の夢を切り開いていく姿に憧れていた。
- 身近に咲いている花の名前や種類を調べるのが好きだった。校庭に咲いた「イイヒメユリ」の絵を描くと、全校生徒の前で先生が発表してもらったことがあり、その時は注目されたことへの恥ずかしさもありつつ、褒めてもらえて嬉しかった。
- 七五三にて。慣れない着物に緊張気味。
- 市内の植物園では歩き疲れた妹をおんぶ。よくケンカしましたが仲良しでした。
- 小学校の学芸会での一コマ。本番に向け何度も練習しました。
- 運動会では競技を説明するアナウンスに挑戦しました。
- 小柄だったので騎馬戦では上に乗ることに。真剣勝負でした。
- 学校のスキー行事。何とか滑れました。
- 長距離走は得意だったので学年の代表メンバーで駅伝に出ました。
エピソード[中学時代]
- 硬式テニスに夢中だった。
- テニス観戦も好きで、当時活躍していたヒンギスやアガシの試合を録画して何度も観ていた。
- 興味本位で始めたエレクトーンは10年続き、字がうまくなりたくて始めた習字は毛筆6段までいった。
- 友達とたくさんプリクラを撮った。「今となっては恥ずかしい」。
- 小学生の頃からクラス内のいじめを黙って見てられない性格だった。荒れ気味の中学に戸惑いを覚えつつも、クラスで居心地が悪そうにしている人を見るとすごく辛い気持ちになり、声を掛けるようにしていた。
- 課外活動が最優先の中学校で文化祭や体育祭には全力で取り組んだ。体育祭ではダンスメンバーに入って放課後の連日の特訓は楽しかった。
- 中学2年に入ると、高校受験を意識するようになった。中二の夏前には自由な校風と硬式テニス部がある紫野高校を志望するようになり、親に頼んで塾にも通い始め、ようやく真剣に勉強に取り組むようになった。第一志望はその後山城高校に変わった。理由は、校舎立替で屋上に新しいテニスコートができるのに魅力を感じたためだった。
- 京都市の「バス停方式」と呼ばれる自宅付近の高校を割り当てられる制度に中学生ながら違和感があった。部活動などで特別な成績がない限り、行きたい高校を志望するには特進クラスしかなく、その中でも第二志望は最寄りの高校を選択しなければリスクのある制度は選択の自由度が低かったが、頑張るしかなかった。この時の問題意識が議員になった後の「自由に高校選択をできる高校入試制度提案」につながった。(平成26年4月入学より、単独選抜制度実現)
- 高校受験は志望校に入れなければ浪人する覚悟で、下校後は毎晩深夜まで勉強に励み、家族は夜食を作ったり紅茶を入れてくれたり何かと応援してくれた。
- 特に数学と理科と英語の偏差値は飛躍的に伸びた。その一方で国語は伸ばし方が分からず偏差値の足を引っ張る悩みの種だった。
- 猛勉強の甲斐あり偏差値は一年半で15上げることに成功した。「高校受験を通して、集中力や粘り強さを身につけられたと思う。その時の努力の積み重ねが今に生きていると感じられる。」
- 体育はあまり好きではなかったが、マラソンだけは得意な方で、毎年中学で実施される登山大会では、学年単位の順位がつくことも頑張るきっかけになり、特に3年時の時には本番3ヶ月前から毎朝自主的に走り込みの特訓に励んだ。その甲斐あり、学年10位に入賞できた。
- 理系が得意だったが、志望校の高倍率を避けて文系を選択した。結局その年だけ文系の倍率が高く、苦戦することとなった。
- 偏差値は上がったものの第一志望の夢が叶わず、市の制度により最寄りの高校が指定された。合格発表の掲示板に第一志望でない高校名が書かれているのを見て、その場に立ち尽くし人目をはばからず泣いた。仕事中の父に泣きながら電話で報告した。「父は私が立ち直れないのではと心配してくれていた」。祖母は家で一人泣いている私のもとにホールケーキを持って駆けつけてくれ、「よく頑張った」となぐさめてくれた。
- 歌手はSPEEDやモーニング娘やゆずや浜崎あゆみが流行っており、卒業時には担任の先生にゆずの“さよならバス”を歌ってみんなで泣いた。
- 自分はあまり要領がいい方ではないことに気付いた。「今では人から器用に見られることも増えたが、根は不器用。何事も一足飛びにはいかないが、一つずつ壁を超えながら進みたい。」
- エレクトーンの発表会にグループで出場しました。
- 仲の良かった友達と体育祭にて。日焼けで年中まっ黒でした。
エピソード[高校時代]
- 第一志望でない北嵯峨高校を好きになれないのではと気にしていたが、「努力して出た結果は、たとえ希望通りではなかったとしても、きっと自分の人生のプラスになる。」ことを信じ、前向きに進み始めた。
- 高校は畑に囲まれた自然溢れるのどかなところだった。
- 高校は進学クラスで3年間クラス替えがなかった。40人学級に男子生徒は10名ほどしかおらず、クラス内は女子高の雰囲気だった。
- 授業は1年生の頃から7限まであり、終わるころにはすっかり夕方になっていたが、公立高校としては充分な教育体制で塾には3年間通わなかった。
- 高校では当初、硬式テニス部を作ろうと発足メンバーを揃えたが、顧問を出来る先生がちょうど高校を去ってしまった後であえなく発足の夢は叶わなかった。その後ソフトテニス部に入ったが、やはり硬式テニスがやりたかったので習い事で通うようになった。決して裕福な家庭ではない中で、エレクトーンや習字、塾、そしてテニスと、通いたいとお願いした習い事を経験させてくれた両親にはすごく感謝している。“やってみたい”という気持ちを尊重してもらえたおかげで、新たな目標に出会えたり、自発的に取り組む姿勢が身についた。
- 当時、衆議院選挙で初めてマニフェストが打ち出され、目標数値や実行期限が示された提言に、日本の政治が動いていく期待感を抱き、政治に関心を持った。
- 大学での選考学部は政治経済を横断的に学べる政策学部に決めた。高校受験での辛い経験から、大学受験には万全な計画で挑んだ。
- 勉強付けの毎日だったが、昼休みにはクラスメイトと校庭でバドミントンをしたり、体を動かすのが好きだった。
- 高校3年時の文化祭ではクラスのダンスの振付を担当し、みんなで一つのものを作り上げられたことに達成感があった。
- 卒業前、下校時に目の前でバイクに乗ったお爺さんが踏切内で倒れ、すぐに駆け寄ったものの一人では担げず、迫ってくる電車から逃げず一緒にひかれようか咄嗟に迷った。幸いそれを見かけた大学生も加わってくれ、無事にお爺さんを踏切外まで運び出せた。あの時は咄嗟だったが、手を差し伸べる勇気と愛情を持ち続けたい。
- 中学から日記はよく書いていた方だが、この頃には同じ悩みの堂々巡りにならないためにただ物事の羅列ではなく建設的に書こうと心掛けるようになった。一度に1,000字は書く習慣ができたおかげで、今でもたまに日記を書く度に「悩みを羅列した後は解決策を考えよう」と自分に言い聞かせている。
- 高校の時に特に仲のよかったクラスメイト。仲良し3人組。教室で撮りました。
- 体育祭でクラスメイトと。
受験勉強の中、合間に精を出し、みんな真っ黒に日焼けしました。
エピソード[大学時代]
- 同志社大学で新設された政策学部1期生として入学。法律、経済、政治の基礎を学び問題発見力を鍛えるというスローガンが魅力だった。
- アルバイトはケーキ屋さん、カフェ、嵐山でのおばんざい屋さん、観光舞妓(観光地での集合写真撮影)、テニススクールの受付など、時間を見つけてはいろいろ経験した。
- 交通費がばかにならなかったので、いつも自転車で移動していた。「その後東京で生活した際に、やはり京都の地下鉄は高いということが分かった。東京の交通網の便利さと値段の安さには驚いた。」
- 在学中、ちょっとした時間を見つけては市内の寺社仏閣やカフェ巡りをした。京都に住みながら、20年の歳月を経てようやく京都に住む醍醐味を少し感じた気になった。
- 京都市内の観光地として代表的な箇所もいろいろ回ったが、個人的には紫式部のお墓を見つけたときが嬉しかった。
- テニスやダンスのサークルは馴染まなかったので、大学設置の留学生受入れボランティアをした。アメリカ人留学生から「アメリカでは朝目覚めると、“今日も頑張らないと”、と緊張感があるけど、日本では安らかな朝を迎えられる。この感じは何だろう」と言われ、自己主張をしなくてもマイペースに過ごせる今の日本について良くも悪くも考えさせられた。
- 大学2回生の時に自分の視野をもっと広げたいと、大学構内でNPO団体が募集していた議員インターンシップへの参加を決める。
- 議員インターンシップでは無所属で活動していた当時27歳の村山祥栄京都市議のもとでお世話になり、ポスター貼りやポスティングが大半だったが、地域イベントへの参加や議員随行も経験した。地方行政の役割を意識すると共に、地域と議会をこなす議員の大変さにも触れた。
- 議員インターンシップ後も議員事務所の学生部として残ることを決めた。当時、学生部の活動は非常に活発で、多いときは30名ほどの学生部体制で、地域活動や調査活動などを議員と共に取り組んだ。「活動を通して、生まれ育った京都市を知るきっかけになった。まちづくりの面白さに触れると共に、財政難や職員不祥事など多くの課題を目の当たりにする機会にもなった」。
- 当時、自分たちが議員事務所で調査していた課題が、議会で大きく取り上げられると共にマスコミでも多数報道され、最終的には京都市で「(職員の)不祥事根絶に向けた改革大綱」が出された。議会が持ちうる影響力の大きさを肌で感じた。
- 将来、議員秘書をしてみたいと思った。
- ただ、社会に出る上ではもっと視野を広げたかったため、まずは民間企業でしっかり自分を鍛えようと商社への就職を決めた。
- 厳かな入学式に気が引き締まると共に、大学生活への期待が高まりました。
- 高校時代から関心のあった政治を近くで見ようと議員インターンを経験。
- 当時、不祥事続きで凝り固まった京都市政を変えるべく立ち上がった村山市議を学生部隊で応援。昼夜関係なく活動しました。
- 遊びよりも試練がずっと多かった大学生活が終了。寂しさより達成感があった気がします。
エピソード[商社勤務時代]
- 生まれ育った京都を離れ、東京での一人暮らしが始まった。
- 会社は自動車部品の専門商社で、制御機器関係の商品開発を担当した。
- “企業家集団経営”という社員一人ひとりの企業家感覚を養う組織風土で、私もマーケティングからメーカー開拓、カタログデザインの作成などを経験した。
- 入社した1年目にリーマンショックが勃発。取引先の企業が次々と倒産に追いやられる景気低迷の恐ろしさに触れた。政治に経済政策が求められる切実な想いを肌で感じた。
- 仕事は非常にハードながらも同期にも恵まれ、無給で土曜日も自主的に会社に行って、平日にこなしきれなかった業務を補っていた。今思えば夢中だったと思う。
- 就職して2~3年で同世代では結婚を意識するメンバーが多くいたが、私自身はまずは仕事をバリバリできる土台を築きたい気持ちが優先で、結婚は二の次だった。
- 就職2年目に自分がプロデュースしたRシリーズという企画が、当時所属していたチームの目玉商品として売り出されることが決まり、大きな達成感を得た。Rシリーズは現在でもチームの売上を牽引しているようで、当時共に企画に携わって頂いたメーカーさんからは今でも順調な売れ行き経過の連絡をもらうことがある。
- 東京で働いて2年目の夏、村山氏から2年後の市会議員選挙に出馬しないか、との打診を受けた。私には早すぎるとその場で断ったが、京都を離れてこそ、生まれ育った地域のために働けることへの想いもあり、とりあえず話を持ち帰ることにした。
- それから1年弱、仕事一色の生活を送りながらも選挙出馬の選択肢は常に念頭にあり、学生時代共に市議のもとで活動した仲間からも強く背中を押される中で次第に前向きに考えるようになった。
- 両親に選挙出馬の相談をする前に妹に話をすると、人前に出るのが好きでないはずの妹が、協力するから頑張れと言ってくれた。その言葉が自分を奮い立たせた。
- 両親には結果的に「出馬したい」という決意表明のような形だった。政治家とは無縁の家系で、両親が心配するのも無理はなかった。それでも熱意を伝え最終的には了承してくれた。
- 入社3年目に突入した春、翌年春の統一地方選への出馬を決めた。仕事への未練はあったが、引継ぎを済ませて夏に退職。東京で休日も返上で働き、鍛えてもらった経験がすぐに活かせるのか正直なところ自信はなかった。それでも誰もが自己実現できる教育環境を整えたい、住む人も訪れる人も快適な交通・都市づくりをしたい、何より京都のために働きたい、との想いで故郷の京都に帰った。
- 退職前に同期と。同じ関西から東京に出てきた仲間です。
苦しいときに互いに助け合った仲間です。
- 事業部の女性陣と退職前に集合写真を撮りました。
- 会社のデスクにて。
私が開発した商品の試作を並べ、日々試行錯誤でした。
- 妹が東京に遊びに来てくれました。
お互い仕事をはじめ、苦労した話を語り合いながら、楽しい時間をすごしました。
- 新入社員のときから非常にお世話になった先輩と。
エピソード[選挙出馬]
- 帰郷した夏、地域政党京都党の発足メンバーに加わり、新党新人としての活動がスタート。
- 練習を踏まえ初めて立った街頭演説では、極度の緊張で頭が真っ白になり、この先の活動が思いやられた。「今も街頭演説は得意ではないけど、伝えたいことがあるから頑張っている。」
- 選挙資金は当初自分がこれまでに貯めてきた貯金だけ。当初出馬に反対していた親が老後のために貯めていたお金を貸してくれたときは中途半端な挑戦に終わらせてはいけないと心に誓った。
- 活動するに従い、徐々に学生を中心としたボランティアスタッフが増えていった。
- 京都党の議員自ら襟を正す定数削減の署名活動では、有効数約38,000筆の署名を一ヶ月で集めたことにより臨時議会が開催され、世論で政治を動かす臨場感を中枢で味わうことができた。その後議員定数は削減された。
- 署名活動は順調ながらも、新党で知名度がないゆえに、説明してまわるのには困難を極めた。
- これから挑む立場の人間は力強さが大事で、泣いて支持を仰ぐのは自分の哲学には反しているので、選挙が終わるまで絶対に泣かないでおこうと決めていた。
- 夏に結党記者会見をして以降活動を開始して選挙までの8ヶ月間、休んだのは元旦だけだった。
- 支持が広がっているような、まだまだ当選ラインには程遠いような、周りからは楽観的予測、悲観的予測、いろいろと教えてもらったが、正直なところ自分では全く分からなかった。とにかく活動あるのみだった。
- 学生部隊に限らず、地域住民の方々にも力強いお支えをいただくようになり、何とかして市議となり、真っ直ぐな活動を通して期待にお応えしたい気持ちが高まった。
- 選挙告示日、それまでの不安が嘘のように消え、すがすがしい気持ちで選挙戦に突入できた。当初先は苦手意識が強かった街頭演説もこの時には気持ち良さを感じられるほどだった。
- 結果は新人議員最多得票での当選。当選確実の知らせは夜の11時過ぎ。父から「おめでとう。当確でたよ。」とのメールが第一報だった。思わず涙がこぼれた。
- 徐々に学生が集まってきてくれました。地道な活動を支えてくれました。
- 議員定数削減の直接請求は、マスコミにも取り上げられるようになりました。
- 直接請求のために集まった署名を京都市に提出。その後、多くの記者に囲まれ、報告しました。
エピソード
- 京都党からは当選議員4人で、ついに議会活動が始まりました。
- 当選後、間もなく私の事務所に多くの“陳情”が寄せられました。これまで聞いたことのない案件も多数あり、四苦八苦しながらでしたが、市民の声を行政へ届けていくことができるようになりました。
- 議員団室は京都市役所2階の真ん中の部屋からスタートし、自分のデスクができました。着任後すぐに山積みになった書類には圧倒されました。
- 4月後半に初めて本会議に参加しました。座席番号は「1」番。市長の席に最も近い最前列で、議長の投票などでは最初に1票を投じる場所でした。議員になるまで傍聴席から見ていた議場に議員として入り、“江村理紗”と書かれた氏名標を目にしたときの「緊張と興奮」を今でもを覚えています。
- 議会ではヤジも多く、「ヤジは議会の花」と肯定する人もいますが、怒鳴りつけるような口調のヤジも少なくなく、不快に感じました。
- 選挙の際に行った市民の声、約38,000筆の署名活動「議員定数削減の議論」は議員3年目でいよいよ本格的になりました。市会改革委員会の場で話すことになり、京都党を代表して私が出席しました。先頭を切って定数削減を主張する党として、他のベテラン議員から直接私に質問が飛ぶこともありました。毎回ただならぬ緊張感の中、主張を述べ切りましたが結果は私たち市民が訴えた9名減とは程遠い2名減という結果でした。これからも引き続き議員定数削減を進める活動をしていきます。
- 議会の座席は1番に。初めての議会の際に、席に自分の名前が書かれているのを見て高揚感に包まれました。